元ヒーラーの覚え書き的な日記

ヒーリング、スピリチュアル、代替医療、ホメオパシー、などを、忘れないうちに綴ってます

Staphスタッフィサグリア@カテリーナ・スフォルツア

Staphsagria スタッフィサグリア

(略Staph)ヒエンソウ

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怒りと屈辱のレメデイーである。 

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スタッフィサグリアの人々は、深刻な怒りをためている。あるいは,進行形で怒っている。屈辱的に扱われ、あるいは暴力にさらされているかもしれない。かつてあった苛酷な環境に適応し、怒りを抱えたまま抵抗する力もないほど消耗しているかもしれない。自尊心を失っている人は、最悪の場合、新興宗教などで洗脳されたりすることもある。マゾスティックな道徳観念にとらわれて、支配されてしまい、依存して抜けられなくなるのだ。

暴力の被害者であり、加害者のレメデイーである。

双方とも、子供時代に暴力にさらされていたかもしれない。しかし、暴力的な親から離れると、夫が暴力的で親そっくりというケースがしばしある。さらに暴力夫と別れても、また同じような人と結婚する人がいるのは何故だろうか。

 

辛い過去や現実を忘れるために何かに中毒する傾向がある。買い物中毒、アルコール中毒、パチンコ中毒、テレビ中毒、自慰中毒、パソコン中毒、さまざまな中毒に至る人たちにスタッフィサグリアは、有効である。

また、宗教に依存する傾向もある。これも、一つの中毒であり、罪悪と救済にたいする依存と言えるだろう。

リストカットなど、刃物による自虐行為も特徴である。

また、一方で他人を刃物で刺したいという願望を持っている。

 

スタッフィサグリアは、レイプのレメデイーでもある。

夢の象意では、刃物は男性器に置き換えられるが、レイプの被害者は、実際に、刃物で自虐行為にはしる傾向がある。

 

また、手術のトラウマのレメデイーでもある。

帝王切開や臓器の摘出や、何らかの要因でメスで切られた細胞のトラウマを癒してくれる。細胞も臓器も、切られて怒っているのだ。

 

・暖かい食餌で好転

・休息で好転

・人の接触で悪化

・怒りから始まった疾患

・何かに中毒している。

 

であるなら、膀胱炎であれ、怒りであれ、欝であれ、スタッフィサグリアが有効である。

 

スタッフィサグリアが必要だった人物がいる。

イタリアルネッサンスを飾ったヒロインの一人、フォルリの伯爵夫人カテリーナ・スフォルツアである。

 

 

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カテリーナ・スフォルツア

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職業:フォルリ伯爵夫人。後に摂政。

性別:女性

父:マリーア・ガレアッツオ・スフォルツア

母:ルクレツィア・ランドリーニ

身体の特徴:金髪、すらりとした長身。イタリア随一の

美貌を歌われたが早婚、多産から中年以降は体が弛み早老を招いた。

精神の特徴:勇猛果敢で戦士のように戦闘的であった。

運のよいときは傲慢であったが、運が傾くと萎縮し敬虔になり宗教に傾いた。

陵辱された経験が何度もある。

病歴:いたって健康。死因は肺炎。

家系の病歴:父、父方の祖母の家系に性格異常が多い。

 

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スフォルツア家の紋章

 

カテリーナ・スフォルツアはレイプによって生まれた子供であった。

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カテリーナの父、マリーア・ガレアッツオ・スフォルツアは、大国ミラーノの君主であったが、一方で根深いサディズムと根深い強姦願望をもった性格異常者であった。彼は権勢並ぶもののない大国の君主であったため、異常であれなんであれ、自分の欲求を通すことが、誰のためにも不幸なことにできてしまうのであった。

 

カテリーナの母ルクレツィア・ランドリーニは、ミラーノの貴族の令嬢で、絶世の美女であった。カテリーナはこの人に似たのだろう。ルクレツィア・ランドリーニは17歳のとき、ミラノ大公に招かれ、無理やり大公のものになってしまった。懐妊したルクレツィア・ランドリーニは、この屈辱的な運命を呪い、つき満ちて生まれたカテリーナに無関心であった。カテリーナは母と離れて祖母の元で育つことになる。

 

カテリーナには、たくさんの兄弟がいた。

嫡出の兄弟が5人、その中には神聖ローマ帝国の皇后となったビアンカもいる。ほかに庶出の兄弟がカテリーナを含めて5人いた。この時代、庶子であることが何の負い目も背負うことなどなかった時代であったから、幸福な公女として高度な教育をうけ過ごしたと思われる。

カテリーナは、その勇気でイタリア第一の女性と謳われた人であったが、美しさもまた、イタリア最高の美女であった。

 

今にのこる肖像画を見ればわかる。卵型の小さい白い顔。端正な気品ある顔だちを縁取る淡いふさふさした巻き毛の金髪。すらりとした均整のとれた長身。若いころは、今のミラノコレクションを飾る、洗練された長身のモデルたちに似ていたのだろう。

外見は母に似て優美な美女であったが、その白い肌の内はスフォルツアの血が何者をも砕く勢いで奔流していた。スフォルツアの家紋は蛇である。この家系の人々は、どこかマムシに似ていたところがあった。

暴力によって生まれたカテリーナの生涯は、暴力に付きまとわれることになる。

 

カテリーナが14歳のとき、父の大公がなくなった。

家臣に短剣で刺されて絶命したのだった。暗殺の首謀者は報復をうけ、あるものは手足を切られて城壁につるされ城壁を肉屋の店先にかえた。あるものは網に括られ馬に引きずりまわされ肉塊になるまで馬は励まされながら辛抱強く走った。

 

父の暗殺、葬儀、そして続く残忍な血みどろの暴力の報復を見届けると、カテリーナは結婚のためローマへとむかった。

父が生前より決めていた縁談で、相手はローマ法王シスト4世の甥ジロラーモ・リアーリオであった。むろん政略結婚である。

ローマで結婚したカテリーナであったが、この結婚は不幸であった。

夫は叔父がローマ法王になった縁で出世し権勢を得た男であるが、その才華は貧しく性格も粗暴で、ローマ法王の甥でなければ出世は難しかったろうと思われる。もちろん、スフォルツアのような名門から妻を迎えることはできなかったに違いない。

子供は次々に生まれたが、嫉妬深く妻に当り散らすつまらない男であった。それでも、シスト4世の縁からローマでは華やかな立場をカテリーナは楽しんだが、夫との生活は楽しいとはいえなかった。乱暴で若い妻に辛く当たることが多かった。カテリーナは、夫からの抑圧に苦しんだ。

 

カテリーナがローマを去るときが来た。シスト4世が崩御したのだった。1483年のことである。そして、夫のジロラーモの運が傾いたのであった。

そして法王選挙、コンクラーベが行われた。

カテリーナは、あくまでスフォルツア家の人間であった。次の法王選挙を有利にしようと試み、妊娠8ヶ月の身で騎乗し、150人の兵を引き連れて、ローマの要所であるカステル・サンタンジェロを占領するのである。

ローマ市民のみならず、イタリア中が驚き、そしてカテリーナの勇気を賛美したのだった。イタリア中に、カテリーナの名が響いた。

しかし、夫のジロラーモが買収に乗ったため、むなしくカステル・サンタンジェロを明け渡したのだった。ジロラーモ夫妻と子供たちは、ローマを退去し領地に帰るしかなかった。

枢機卿たちは、新しい法王にシスト4世の政敵であったインノチェンツオ8世を選出した。リアーリオ家に厳しい風向きになった。

 

フォルリに帰還後、ジロラーモの無謀で無能な失政が続き、市民の不満がたかまり、ジロラーモは暗殺された。1488年のことである。

このとき蜂起した暴徒は居城を占拠し、このときカテリーナは、群がる暴徒に輪姦されたという。暗殺された夫の死体は、服をぬがされ町中を引き回されたのだった。

カテリーナは、捕虜として子供たちとともに引き立てられて連行された。

しかし、策謀たくみに走らせて、敵の裏をかき、カテリーナはフォルリを取り戻すことに成功する。そして、以後、摂政としてフォルリに君臨するのである。

 

カテリーナは3回結婚している。

最初の夫から解放されたカテリーナは、自分に正直に生きることができるようになった。化粧が目立って濃くなり、夫に踏みつけられていた時間を取り戻すかのように、スフォルツア家のエネルギーを、悪びれることなく自分のために使うようになったのだ。

 

幾人かの男と恋を楽しんだが、7歳年下のジャコモ・フェオには真剣になり、秘密裏に結婚までしてしまった。死んだ最初の夫の従者だった男で身分が違ったが、カテリーナは、望むものを若い美貌の夫に与え続けた。

ジャコモは増長し、君主のように振る舞い、外出するときも君主のような容儀でなければ承知しないようになり、カテリーナに対しても傲慢になった。

カテリーナは気がつかなかったかもしれないが、ジャコモは、たぐいまれな美貌と若さという点を除くと、最初の夫によく似ていた。カテリーナは同じタイプの夫を選んだのだった。

ジャコモは、傲慢さが増長して、家臣の確執を高め、ついに暗殺された。享年25歳であった。

カテリーナは怒りに我を失った。まさに火を噴くスフォツツアの蛇であった。首謀者の一族は女子供にいたるまで逮捕され容赦なく粛清された。入牢者40人。処刑されたものは37人。処刑方法も生きたまま空井戸に放り込むといった残忍さであったためイタリア中の顰蹙をかってしまった。

最初の夫の死には泣かなかったし悲しまなかったが、カテリーナは夫の死を悲しんだ。立派な葬儀をしてやった。でも、悲しんだのはカテリーナだけであった。

 

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ジョバンニ・デ・メディチ

 

カテリーナが32歳のとき、28歳の駐在大使がフィレンツェからやってきた。

大使はジョバンニ・デ・メディチといいメディチ家の御曹司であった。美しく猛々しいフォルリの女君主と、優美で洗練された美貌の貴公子は恋に落ちた。ともにイタリアの名門同士であったため政治問題に発展し国の運命を左右するといってよく、当時の国際情勢から見て結婚はむつかしかった。しかし、2人は秘密裏に結婚したのだった。

しかし、花の都から来た貴公子の玉の緒は、花のように儚かく砕けてしまったのである。病を得て、療養の甲斐なく病死してしまったのだ。

 

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ジョバンニ・デ・メディチ

 

この2人の間にうまれたのが、後に黒備えのジョバンニと呼ばれる高名な傭兵隊長になる運命をもつ人物である。黒備えのジョバンニの子のコシモが、スペイン皇帝の後見の下で、フィレンツェ大公となりコシモ1世となったのはよく知られている。

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コシモ一世

 

摂政として君臨したカテリーナは、フォルリを統治したが、彼女のスフォルツア流の暴政は、評判がよくなかった。すくなくとも、忠誠心はもっていなかった。

 

1500年、カテリーナは、フォルリをうしなう。

当時のローマ法王アレクサンドル6世の庶子チェーザレ・ボルジアが、フォルリを攻めたのだ。カテリーナの暴政に飽き飽きした市民は、カテリーナを捨てて、さっさと降伏したのである。

カテリーナは、武門の名門スフォルツアの血を支えにして、傭兵を叱咤激励しながら雄々しく戦った。

降伏をすすめられても、

「私は、恐れを知らなかった男の娘です」

といいきり、拒否。抗戦を選んだ。

カテリーナは傭兵を率いて自ら武装し籠城して戦ったものの、大軍の前には力及ばず降伏した。

 

そして、征服者である25歳のチェーザレ・ボルジアは37歳のカテリーナをつれて、一日中部屋に引きこもったのである。チェーザレはカテリーナに、不適切な関係、を強要したらしい。この行為は轟々たる非難を浴びた。

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チェーザレ・ボルジア

 

その後捕虜としてローマに連行され、かつて若かりし日に、自らが立てこもったカステル・サンタンジェロに監禁の身となった。その後、釈放運動が起こり保釈金を払い釈放されたカテリーナは3番目の夫の故郷フィレンツェに亡命した。これを最後に国際政治の舞台から消える。

フィレンツェに落ち着いたカテリーナは、今度は夫の親族との金銭をめぐる争いを戦わなくてはならなかった。夫の財産を使い込んでいた男との争いはカテリーナを消耗させた。子供たちは、3番目の夫の間に生まれたジョバンニを除いては、皆不肖で確執が絶えることはなかった。

 

カテリーナを支えていたのは、フォルリであった。

フォルリにもう一度返り咲きたい。その野心がカテリーナを支えていた。しかし、この願いも虚しくなった。1503年。フォルリは正式に法王領にくみこまれたのである。

以後、カテリーナは、宗教的な祈祷と懺悔でもって、虚空を埋めるのである。サボナローラと親交を深めたのはこのころであった。

1509年4月。カテリーナは高熱を出して倒れた。肺炎か、あるいは肋骨炎を疑われた。一時は持ち直すが、同年5月にカテリーナは鬼籍にはいった。47歳であった。

 

【お勧めの処方】

朝、昼、夜、Staphスタッフィサグリア1M × 1か月

 

すこし日にちをあけて、

朝、昼、夜、Lachラカシス 200cc × 1か月

      蛇の毒で作ったレメディー、

      エネルギーが高いが、愛憎の落差が激しい。

      根本体質。