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元ヒーラーの覚え書き的な日記

ヒーリング、スピリチュアル、代替医療、ホメオパシー、などを、忘れないうちに綴ってます

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※当ブログの記事の無断転載、転用はご遠慮ください

アルファ波の@うたごえ(前)

日記

本日もお越しいただきありがとうございます。

まだ残暑が厳しいですね。

忙しい日がつづくと、だれしもリラックスしてみたいものです。

youtubeでもα波音楽と検索すれば、たくさんのヒーリング曲がヒットしますね。

ヒーリングでは

 眼を閉じて

 夕暮れの海を思い浮かべて、

 沈みゆく太陽のまえを鳥がとんでいる、

ことを想像すると、脳波がα波になると教わりました。

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人工的に作られた音楽も、作り手の思惑をこえてα波になってたりするそうです。

日本芸能史上最大のアイドルだった松田聖子ちゃんの歌はα波が出ているとか。

ある時期まで、歌う曲すべてがヒットした聖子ちゃん。聖子ちゃんの歌声がα波になってからヒットしたのかも。

「蒼いフォトグラフ」

基本的に、B面に入っている曲が好きでした。

www.youtube.com

聖子ちゃんは、80年代から圧倒的なアイドルであり、日本のセックスシンボルでした。

日本のセックスシンボルは娼婦でもなく運命の女でもなく、まだ社会にでるまえの堅実な家庭で生育している10代の処女なんですよね。

あの年代の恥じらいや初々しさを聖子ちゃんは見事に演じ切ってくれました。

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10代の清純な女の子がどういいう表情をし、どういう身のこなしをし、どういう話し方をし、どういう考えと感性でつくられているのか、これらを知性で理解し演じ切るのは、知能が高く頭のいい方でないと無理でしょう。そして、それを続ける忍耐力。

聖子ちゃんは、それを持っていたからスーパーアイドルだったのかなと思います。

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歌舞伎役者さんの女形さんたちは、美しい女性の所作を会得しているので、オッサンになろうが爺さんになろうが、女性よりも女性らしい麗人佳人を演じられます。

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聖子ちゃんもデビュー当時から可愛い10代の子の所作を会得しているので、加齢しても、今なお可愛いでのです。

天然の可愛い子、だと、加齢すると容姿の劣化や性格の変化とともに輝きも劣化しますね。多くの素材の豊かなアイドルが、生活の荒れと同時に価値も下がり俗化しては消えていきました。多くのアイドル達は、ただ、天然の自分の個性と若さで勝負してたからでしょうね。

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成人して、聖子ちゃんの偉大さに気が付きましたわ。

 

デビュー当時、実は2番手だった松田聖子

大逆転したワケ

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https://dot.asahi.com/wa/2016080500068.html

 歌手生活36周年、今も輝きを放ち続けている“アイドルの中のアイドル”松田聖子──。

 1979年にサンミュージックに所属して89年に独立するまでの間に24曲連続オリコンシングルチャート1位など数々の金字塔を打ち立てた。希代のスターはどうやって運命の扉を開けたのか。

デビュー前、九州の実家まで直々に親を説得に行ったという“立役者”の一人で元専務の福田時雄名誉顧問(86)が振り返る。

「聖子と初めて会ったのは79年の5月。四谷4丁目の事務所の一室です。九州の私立高校の3年生で、制服を着てひとりでやってきました。見た目の第一印象は、清楚なお嬢さんといった感じで、ここまでビッグスターになるとは正直、思いもしなかったんです」

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 聖子は前年78年4月、ミス・セブンティーンコンテスト(集英社CBSソニー共催)の九州地区大会で桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌い優勝したが、両親が反対して全国大会を辞退していた。

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 だが当時のCBSソニー制作部の若松宗雄プロデューサーがその歌を聴いて「売れる声だ」と確信しスカウト。聖子と連絡を取り続け、東京でプロモーションを始めていた。サンミュージックは数社目に訪れた事務所だった。

「うちでは翌年2月に別の女性歌手(中山圭子)を同じCBSソニーからCMとタイアップして売り出す予定があり、断るつもりでした。でも持参した山口百恵岩崎宏美のカラオケテープに合わせて歌ったとたん、(創業者の故・)相澤(秀禎)も私も釘付け。伸びやかないい声で。それで、うちで預かりましょうということになったのですが、高校を卒業してから上京しなさいと話したんです。そして、すぐにCBSソニーの人と久留米の家へ説得に行きました」

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 応接間に通された福田氏は、そのときの“家庭の様子”が忘れられないという。 

「応接間のソファに私とお父さんが向き合って座り、音楽の才能のこと、相澤の家に下宿させて見守るということを話したのですが、そのときに聖子が紅茶をトレーに載せて持ってきてくれました。高校生ながらお茶を出す姿が板について、すごくよかったんです(笑)。きちんとしつけられた娘さんだなと」

 

 聖子は紅茶を配り終えると、応接間に続く縁側(板の間)に、トレーを持ったままピシッと背筋を伸ばして正座して、そのまま微動だにしなかったという。 

「お父さんがいいと言うまで動きませんという表情で、芯の強さを感じましたね(笑)。この家でいい教育を受けたのだということも実感しました。桜田淳子などもそうでしたが、芸能界で成功するには運、才能のほかに、家庭の雰囲気も大きな要素だと思っています。それまでにも何人もスカウトして自宅に行きましたが、“この子がいなくなったら平和になる”というように親との関係が悪かったり、アポをとって訪ねたのに親が泥酔しているような家庭環境ではデビューしても大成はしていません」

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 父の理解を得た聖子は、九州の高校から堀越高校に転校し、夏休みに上京してきた。

「一刻も早く歌手になりたい」という本人の希望からだったようだが、この決断がすべての運を開いた、と振り返る福田氏。

「その年の11月に始まる日本テレビ『おだいじに』というドラマで(事務所所属の)太川陽介の相手役に応募したらポンと受かって。それで聖子は歌手より先に女優でデビューしたんです。そして、ドラマの役名も芸名と同じ松田聖子にしてもらったのです」

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 そのドラマ出演中に洗顔料「エクボ」のCMモデルのオーディションを受けたが、“エクボができない”ために出演は見送られた。だが声が認められてCMソングを歌ったところ話題になり、当初の曲のタイトル「エクボの季節」を「裸足の季節」と変えて、80年4月、この曲でデビューを飾った。

「その前月に山口百恵が引退発表をしたこともあり、いきなり聖子がポスト百恵として注目されたんです。じつはうちで賭けていたもうひとりの新人のCMタイアップが直前に頓挫してプロモーションがうまくいかず、そんなタイミングが余計に聖子への追い風となったのです。しかし、その運は聖子自身が掴んだものです。もし我々の言葉に従って久留米で高校を卒業してから上京していたら、タイミングを逃していたでしょう」

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 2曲目の「青い珊瑚礁」が大ヒット。そこから快進撃は止まらなかった。

「大ブームになった聖子ちゃんカットは、気付けば全国の女の子が髪形をまねて、その後に出たアイドルも皆、聖子とそっくりな髪形でしたね」

 聖子はデビュー前の“約束どおり”社長の相澤氏の家に一緒に住んだが、そこに大勢のファンが押し寄せたという。「都内にある相澤の家の周囲は休日ともなると人がいっぱい。でもいちばん迷惑をこうむったのは司葉子さんの家なんです。ご主人(相澤英之氏)は衆議院議員でしたが、同じ“相澤”の表札を見てファンが間違えてそちらに押しかけてしまったんです」

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 2013年、相澤氏がすい臓がんで死去した際、娘の神田沙也加を連れ、通夜に駆けつけた聖子。その後の14、15年も2年連続で紅白歌合戦の“大トリ”を務め、娘の沙也加と共演を果たすなど名実ともに芸能界の“伝説”となった。福田氏は言う。

「聖子のことは相澤も特段可愛がっていました。今までの活躍ぶりをきっと天国で喜んで見守っていることと思います」

(一部敬称略)(本誌・藤村かおり)

 

画像が重いので別けます。